2010年3月6日土曜日

化粧品の歴史 日本 古代『白』

『白』

日本や中国でも肌を白くみせるために白粉(おしろい)をつかい、顔や首筋にその『白』を塗りこみました、色白が美しさの基準であり、純潔で高貴なイメージがどんどん高まっていきました。

日本では持統天皇がはじめて『おしろい』をしました、白のイメージには清潔、純真、神聖、清浄、清楚、潔白、純潔、高貴、善などがあります。つまり白肌とは高貴さの象徴だったのです。働く庶民の日焼けした肌とは対照的でした。

江戸時代以前のおしろいは、植物性、動物性、鉱物性の白色顔料がありそれぞれ単品で使っていました。

植物性のおしろいは主に米の粉(デンプン)です、鉱物性のおしろいは白陶土(はくとうど)や滑石粉(かつせきこ)や雲母を、動物性のおしろいではハマグリなどの貝殻粉でした。

今のおしろいとは違いノビ、ノリ、ツキがそれぞれ良くないようですが、奈良時代になってから大陸から鉛白粉(鉛白)や水銀白粉(軽粉)が伝わり、古代~中世にかけては鉛白粉が使われ中世末期ごろから水銀白粉が使われるようになりました。水銀系はキラキラと透明感があり、鉛白粉は細かくやや不透明ですが、ノビ、ノリ、ツキの3条件を満たす素晴らしいものでした。

現代では水銀や鉛が体にとって、とても害のあるものだと知られていますので使用されることはありませんが、当時の人々(特に歌舞伎役者など)はその中毒性によって病に侵されるなどの結果を招いていたようです。

明治時代になり、無鉛の白粉の研究が進みましたが、まだまだ納得のいく製品が開発されるまでに時間がかかり、中毒性があると解っていてもなお、鉛入りの白粉が使用されていました。明治末になると舶来のおしろいや洋風化粧が少しずつ普及され、紅色、肉色、砥の粉色、黄色などが出始めたようです。

大正6年に資生堂が白、黄、肉黄、ばら、牡丹、緑、紫の七色粉白粉を発売し、それを機に当時の大手メーカー(レート、クラブ、御園)も多色白粉を発売しました。和装の装いがまだ多い時代で需要はそれほど多くなかったようです。

昭和に入り、第2次大戦後になるとアメリカからファンデーションが新しい化粧品として売り出され流行しました。これは乳液状、クリーム状、スティック状のもので、化粧水と白粉を1度で済ませられるようにとインスタント感覚から発売され、その効果はおしろいよりも自然な感じでシミが隠せ、肌色もきれいい見えることから、若い女性を中心に大ヒットしました。

その後マックスファクターから少量のクリーム(油分)とおしろいでケーキ状(パウダーファンデーション)が開発され、同様にレブロンからも昭和26,7年ごろにクリームパフというネーミングで発売されました。

以来、新しい素材の探索と配合割合などの研究が続けられましたが、そのベースはカオリン、タルク、亜鉛華、二酸化チタン、金属せっけん、マイカ、スターチなどで、古代顔料が現代まで受け継がれてきたのがうかがえます。